留学中お世話になった人にたまたま会って、帰国前に食事でもという話になった。あまり仰々しくしたくなかったので、この間スロヴェニアでたまたま見付けたヴィパヴァ地方のオゼリャンという集落にあるピザ屋グラッドに連れて行ってもらった。前にも書いたけど、ここは揚げカラマーリがなかなか美味しくて、その内にまた行こうと思っていたのだ。この友達はかなり年上のゴリツィアーノだったんだけど、オゼリャンの標識を見て、突然興奮しだした。「あ~、オゼリャン!ここがオゼリャーノか。なんという偶然!」
 彼は子供の時に父親や叔父さんの口からその土地の名をよく聞いていたらしい。実はこの日は彼の父親の法要があった。そんな日に記憶の彼方にあったオゼリャンという地名を耳にしたことで、忘れていた昔の記憶が鮮明に甦ってきたというのだ。カラマーリをつつきながら、彼は興奮気味に家族の歴史について話しまくった。
 彼のお父さんダミアーノは1904年にゴリツィアで生まれたオーストリア官僚の子で、財産は全くなかった。グラーツの商業学校で学び、戦後またゴリツィアで少し勉強を続けた。ダミアーノの母親はスロヴェニア人で、家ではスロヴェニア語とフリウーリ語を話していた。戦争中はダルマチアのスプリットで戦い、戦後、ゴリツィアで雑貨屋を開けた。彼の店は品揃えの良さで評判になり、あっという間に町一番になった。戦争直後のゴリツィアでは全ての日用品が不足していた。その中でも箒はユーゴスラヴィア側、イタリア側の両方で非常に需要の大きかったものの1つだった。ダミアーノはミラーノで大量に箒を仕入れることに成功し、ゴリツィアに持ち帰って大成功したらしい。更に冷戦期ゴリツィアでは一定の商品〔チョコレート、石油、蒸留酒など〕の生産・販売において納税上の優遇措置を受けられることになり、さっそく蒸留酒の工場を開けた。これで商売の範囲をイタリア全土に広げることに成功し、ゴリツィアでも有名な企業家となった。
 50歳を前にして、フリウーリ地方のお菓子工場で働いていた20歳年下のお母さんと知り合って結婚。お母さんはその後お父さんの工場で工員として働いていたそうだ。このお母さんは整備されていない山の斜面でのスキーを楽しむような人で、今でも元気にしているらしい。戦後国境設定の問題やそれ以後の民族対立で国境地域が政治的に緊迫していた時にも、平気で家族を旧ユーゴのスプリットやモスタルまで旅行に連れて行ったりしたらしい。
 彼の記憶の中で、お父さんは最初から「巨大な老人」だったそうだ。その存在感は絶大だった。それに比べ4人の子供をそれぞれ養育係に預けた母親に対する愛着はあまりないそうだ。彼は今以てこの2人が結婚した理由が分からないとしながら、彼らがとても愛し合っていたことだけははっきり覚えていると言っていた。
 話ながら友達は「子供の時の小さな出来事なんて普段すっかり忘れていたよ。なんかだか昔に帰ってお父さん達と一緒にいるみたいな気がする。」と彼は言った。「XX〔私〕がオゼリャンに連れてきてくれたからだ。ありがとう。」と何度も言われて思わず恐縮。運転するというのに沢山飲む彼に「どの位飲めるの?」と聞いたら、ビール3リットル、ワイン2リットルなら平常心で飲めるという返事が…。ちなみに彼のお父さんも食事時に毎日2リットルのワインを飲み「水は体に悪い」と言っていたらしい。昔話を沢山聞けた一夜だった。
ricomincio
 日本でもお馴染み、ほんわりしたナポリ方言のお笑い芸人Massimo Troisiマッシモ・トロイージの最初の劇場作品で、作品と主演男優部門で1981年のDavid di Donatello賞を受けている。トロイージと彼の相棒Lello Arenaの絶妙な絡みが最高。多分翌年に撮ったScusate il ritardoにもこのゴールデン・コンビが再登場していたような気がする。
 ナポリのハンサムだけどボケ~っとしたガエターノ(トロイージ)は実家にも仕事にもウンザリして、叔母さんがいるフィレンツェにヒッチハイクで向かうことにする。道中から「どちらから?」と聞かれ「ナポリからです。」と答える度に「ああ、移民ね」という会話が繰り返されたり、
 アメリカから新宗教の布教にやって来た若者がアッシーシのサン・フランチェスコのかの有名な「鳥への説教」に言及すると、「ふ~。もううんざりだよ。あの話には。鳥だってウンザリしてたはずだよ。鳥の「渡り」が始まったのはあいつのせいだ。」とか、次から次にbattuteギャグを連発。ただ日本語で改めて書いてみると「全然面白くない!」のが不思議。これは彼の人徳と愉快なナポリ弁のお陰なのかな。
 マッシモ・トロイージはIl postinoあるいはマストロヤンニと競演したChe ora è?(1989) でイタリア以外でも有名になったみたいだけど、イタリアではこの作品、あるいはロベルト・ベニーニと競演したNon ci resta che piangere(1984)がとてもよく知られている。後者に関しても大爆笑を保証!
 家賃のことで面倒くさいことになった。今定員3名の我が家には4名が住んでいて、私の部屋を1人が、彼女の部屋を1人が待っている、玉突き状態。私が出れば晴れて全員が各々の自室を持つことができる。定員オーバーの家はかなり窮屈だし、他にやることもあるし、と3月前半には自分の部屋をルームメートに明け渡すことにした。そこで家賃を半額にしてもらえませんか?と大家さんに電話で聞いたら、彼女の態度が豹変。一銭も損をしたくない、とばかりに「だめ!!そんな勝手は許さない。あんたの都合で早く出るんだから一ヶ月分払いなさい。」だそうだ。私が「でも前に住んでいたヴァレンティーナは同じように半月分払って出ていきました。」と言うと、「イ~ヤそんなわけない。ヴァレに許してあんたに許さないわけない。私は正義漢なんだから。」と譲らない。あまりに激しかったので「じゃあ別にいいです。でもヴァレが半額払ったの私ははっきり覚えています。」となんとかやんわり電話を切ったのだった。そしたら夜になって「ヴァレには光熱費を半額にしてやったのをあんたは勘違いしたんだよ。これで安らかに眠れる?」という電話が来た。
 実はこの電話を受ける前に専門家の友達と話したら「そんなの払う必要ないだろ。イタリアではみんな一銭でも多く人からかすめ取ろうとするんだから、しっかりしないといつもみたいに損するよ。大体学生を正式にクエストゥーラで登録しないで費用を節約したり、最初に取った保証金で後から光熱費を精算する彼女のやり方は少なくともイタリアでは固く禁止されている。彼女の「正義」は少なくともイタリアの「正義」じゃないね。裁判になったって勝ちは決まっているんだから絶対払うな!」とアドヴァイスされていたこともあり、ちょっと反抗してみることにした。「いいえ。ヴァレは“家賃”を半額払いました。私はっきり覚えています。それに家賃を全額払うなら鍵を月末まで私が持って、後で書き留めで送ります。」とかなり控えめの提案をしたら「なんでよ。あんたの部屋をエリカ〔ルームメート〕が待ってるんだから、居なくなるなら空けてあげなさいよ。どうしても明け渡さないっていうなら部屋の鍵は持っていたっていいけど、家のはダメだからね。」と全く理不尽な意地悪まで言い始めた。「家の鍵がなくてどうやって部屋に入れるんですか?一ヶ月分丸々払うんだから部屋をどう使おうと、家を出ようと残ろうと私の自由でしょ?エリカは関係ないです。」と言ったら、大家さんは「ああ、電話だと訳分かんないわ。1日に直接会って話そう。お休み~。」と電話を切った。
 弁護士や会計士の友達に間に入ってもらって正面から戦って僅かな金額をセーブするか、さっさと諦めてせいせいと出ていくか。そりゃ後者だろう。

 荷物を作ってはせっせと送る日々。今回は全部スロヴェニアから送ることにした。イタリアの郵便事情にウンザリしていて、隣国スロヴェニアに行くチャンスがある人にオススメしたいのはスロヴェニアの郵便局を利用すること。何がいいって、向こうで荷造りの最終過程を引き受けてくれること。イタリアでは、箱を紙で包みその上に宛先を書いて、と規制が厳しいから、船便の20kg制限をオーバーしていたりすると、その場で荷物を開いて一からやり直しになる。その点スロヴェニアでは大雑把な荷物を作って、微調整用の細々としたものを持参すれば、その場で重さを調整して、後は向こうにお任せできる。しかも安い。イタリアで70ユーロくらいかかるけど、スロヴェニアでは45ユーロくらいで済む。それに到着までの時間が短い。ゴリツィアとノヴァ・ゴリツァのように隣り合った町から日本に荷物を送っても数週間の差が出たりするから面白い。日本のように郵便局が荷物を取りに来てくれるサービスができるのはイタリアとスロヴェニアのどっちが先なんだろう。
に行ってきた。イストゥリア半島の海沿いの町々はもうすっかり春らしくなっていた。ピンクや黄色の花が開き、青々した畑と美しい対照をなしていた。この辺りは1月でも平均気温6、7℃あるので、ゴリツィアと比べてもかなり暖かい。
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 スロヴェニアのイゾラやピランは日本人にとってはあまり馴染みがないかもしれないけど、ローマ史にも名を残す歴史ある美しいアドリア海沿岸の町だ。中世までヴェネツィアの支配下にあり、第2次大戦前までイタリア領だったこともあり、イタリア語を解する人が多いけれど、現在は5,6%らしい。カジノも温泉も大ホテルもなく、ポルトロージュやブレッド湖に比べると知名度が落ちるものの、その分落ち着いた滞在ができてオススメ。個人的にピランはイストゥリアの海辺の町で一番気に入っている。2つともヴェネツィアによる統治時代のゴシックっぽい面影が濃厚に残っているのが魅力なんだけど、特にピランは幹線道から外れ若干アクセスが面倒なせいか原形をよくとどめている。今回イゾラの後に訪れたピランは残念ながら霧がかかっていて、よい写真が撮れなかった。取り敢えずイゾラのチェントロの写真だけ少し。
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(イゾラの港)
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(狭い路地)
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(フィアットのライセンスを得て旧ユーゴで生産していたZASTAVA。中年以上にこの車の想い出を語る人が多い。)
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(音楽学校)
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(教会と塔。塔は崩れやすいので注意、とありました。)
 帰り道、Kozina(スロヴェニア)のビール醸造工場兼ゴスティルナに寄った。ここは若いトリエスティーニの間ではとっても有名な店。なんといっても国境を越えてすぐだし、安いし、美味しいから。オープンしてから10年ほどのようだけど、店はいつも繁盛している。オススメは肉各種を焼いたもの。カラマーリとか魚介類もおいている。ここしばらくず~っとイゾラに行きたかったのは以前blogに書いたSonjaという海の幸料理が旨くて安いゴスティルナがあるからだったのに、残念ながら今回は寄れなかった。
 新しいルームメート、エリカがローマ〔正確にはローマから60kmほど離れたラティーナというファシズム期に創成された“醜い”ニュータウン〕から到着した。通訳の勉強のために一国の首都からわざわざ800kmも離れたゴリツィアまで来なければいけなかったのか、と不思議に思う。金融関係の会社を経営しているという彼女の父親はおよそ20年前に東京へ行ったことがあるとかで、バブルまっただ中だった当時、「物価は高かったけど、旨いものは食えたし、何もかもきちっと機能していて印象的だった」そうだ。
 今年エラスムスを終えたばかりの子が続々とゴリツィアに戻ってきている。それぞれの滞在先の印象を我先にと友達に語って聞かせようとする二十歳そこそこの彼女達の姿を見ていると、とても羨ましくなる。スペインやポルトガル組は美しくて情熱的な滞在ができた、とみな一様に満足している様子。北欧は生活費がかかるけど、国際的でオープン。唯一ロンドン、イギリスを選んだ学生からのみいい話を聞かない。食べ物は不味いし、社会は荒んだ感じで、学制はガチガチ、町も美しいとは言い難いそうだ。じゃ、なんで行ったの?と聞くと「ここまでとは思ってなかったの!それに英語を本場で勉強したかったし。でもロンドンだって地方だってみんな方言キツいから全然意味なかったよ。」。こういう話を聞いていると、多くの人がこだわるGDPに一体どういう価値があるんだろうと考えざるをえない。
 ヨーロッパでは月々数百ユーロの支援を受けながら別のEU加盟国の大学で取得した単位が母校で卒業単位として認定されるエラスムスという制度を利用して半年程度のミニ留学をする学生が非常に多い。留学とは言っても半年程度では結局旅行に毛が生えた程度。外国語を仕事で使えるレベルまで持って行くとか、現地の内情を熟知するにはあまりに短すぎる。それでもこの期間に受けた刺激が彼女たちの今後の人生設計に大きく影響するのは言うまでもない。こうしてやすやすと「ヨーロッパ人」となっていく彼女たちの姿を見ていると、なんだか日本の学生が気の毒に思える。日本人にとって「海外留学」というのは、まず「お金のかかる」もの。アメリカの正規学部留学で1年、数百万とか、MBAのためにはそれ以上準備する人もいると聞いてびっくりした。更には一般高校や学部の短期留学ごときでも、おかしな仲介業者に巨額のマージンをとられている人が沢山いるという話も聞く。
 日本のように資源をもたず、製品市場も海外に求めざるを得ない国にとって外国との折衝は必然なんだから、外国語を使った交渉能力向上のために様々な工夫があってもいいはずなのに…。外国語をやって日本語力が落ちるようでは本末転倒とか、中身があれば外国語力が貧しくても競争力を維持できるとかいう考え方が強く残っているせいか、イマイチ実践的な語学学習環境に欠ける印象がある 。ヨーロッパでは4,5カ国語操る人は決して珍しくないし、そういう人に「中身がない」わけでも、それぞれの言語の知識が薄っぺらいわけでもない。自分の経験からも、外国語力と日本語力が反比例する(あるいはゼロサム)とは到底思えないし、議論というのはその人の語学力のレベルでしか出来ないとも思う。
 ともあれ高校生や学部学生の段階から利用できる効率的な国家レベルの留学制度を作る〔例えばエラスムスのように近隣国間で相互の留学+単位認定制度を整える〕とか、院生に関しても学振〔海外学振に限らず〕を海外でも利用できるようにするとか、何か出来ることがあるんじゃないかな。個々の大学間提携にしたって、もっとその土地に滞在している邦人を活用すればより細やで行き届いたシステムを構築できるはず。
 もう週明け。およそ1ヶ月後には帰国の予定でいる。ちょっと距離の長い移動の前はいつも忙しくなる上、今回はかなり荷物があるから大変だ。今回帰国してもどうせまたすぐにゴリツィアに来るだろうし、この先も長い付き合いになる、と言ってもやはり一応お世話になった方々にご挨拶などをしておく必要もある。コピーを取っておくもの、入手すべきものなど、大急ぎでかき集める毎日だ。
 夕方にノヴァ・ゴリツァのモンテ・サントへ上る途中にあるゴスティルナへ「パラチンケ〔クレープ〕を食べに行こう!」と友達の車で出発。その店のパラチンケはパラチンケと名乗りながら全くの別物で、外観はグラタン。とにかく大きくて熱々とろとろな一品で、結構頻繁に食べに行った。今回帰国したらいつ来られるか分からないから写真でも撮っておこうと思ったら、休業中。2月末まで閉めるらしい。頂上の店も閉まっていたし、コルモーンスのラ・スビーダやサン・フロリアーノのコルシッチやヴォグリッチといい、スロヴェニア系の店は2月半ばに閉めるところが多いのかな…。というわけでソルカンのピザ屋に行って、普通のパラチンケをオーダー。ちなみにHIT系のこのピザ屋ではなかなか立派な具が乗ったピザが食べられてオススメ。大きなエビなんかも。
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 その後音楽学校に向かい、8時半過ぎにレッスンを始めた。前の生徒エリザベッタはもう10年くらいアントニオに習っているとかで、非常にプライヴェートなことまでしゃべりまくって帰って行く。今日はヒステリックな母親との確執についてまくしたてていた。30代後半(?)くらいの独身の薬剤師だけど、そんな問題を抱えているなんて知らなかった。レッスンは快調そのものだったんだけど、途中でマエストロの友達から電話が…。音楽家仲間だという彼はなんとその日奥さんに捨てられてしまったらしい。ちなみにその奥さんはマエストロのオーケストラ仲間だそうだ。これでレッスンは中断し、その分次回長めにやることになった。それにしても本当にこの辺は離婚が多い。めちゃくちゃ多い。ま、我慢して無理に引き延ばすよりマシなのかもしれない。
 家に帰ったらルームメート、パオラの友達がサルデーニャのカリアリから到着した。サルデーニャ土産を色々持参して来たので、その説明などをしてもらった。試食はまた今度!疲れたから早く寝る。
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(サルデーニャのソーセージ)
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(羊チーズ)

(ボラの卵。パスタの具とか、とにかく何にでも入れるらしい。)
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(アーモンドをベースにしたドルチ各種)
 日曜日もまたまた快晴。この日は午前中スロヴェニアの 山に登り、午後はイゾンツォ河口の自然保護地区や漁師村へ遊びに行ってきた。
イゾンツォ河口のフォッサロンの辺りは一帯が沼地だったそうだが、現在はムッソリーニが干拓して出来た畑が広がっている。湿気が多くてアスパラガス栽培がさかんに行われているらしい。現在は自然保護地区に指定され、小さな博物館のようなものも出来ていた。
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 Punta del Beccoベッコ岬に向かう途中にあるSdobbaスドッバにはかつての漁師村が残り、小さな家の入り口にはガラスや陶器の破片を使った魚を模るモザイクなんかが見られる。この先を岬の方へ歩いて行くと、葦原が広がり、モンファルコーネやドゥイーノ、トリエステ、ムッジャ、コーペルなどを見渡すことのできるミニ展望台がある。
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vill.pescatori
vill.pescatori
pesce
canne
 この後、少しグラードの砂浜を歩いてから帰宅した。
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 最近私が帰国することを知っている友達がよくあちこちに連れて行ってくれるんだけど、疲れるし、時間的にぎりぎり。「すぐに帰ってくるから」とか「来年以降少し時間ができるかも」とか言っても、やっぱり色々見せておこうと思ってくれるんだろう。本当に感謝している。
日曜日の朝はスロヴェニアのノヴァ・ゴリツァからアイドゥッシナ方面へツーリング。この辺りにはTrnovski Gozd(トゥルノーヴァの森)の1000くらいのなだらかな山が続いていて、麓のヴィパヴァ地方はスロヴェニア有数のワイン生産地として知られている。シェンパス近くで、山の頂上を目指してうろうろさ迷うも、結局車でも上れるようないい道を見付けられなかった。諦めて途中の牧草地で少し昼寝をして山を下りることにした。この日も日差しがとても強くて、少し日焼けしたような気もする。この後Gradという名のピッツェリアに入った。Grad(城)というだけあって、結構古そうないい建物で、イタリア人客が半分。カラマーリ(ヤリイカ)がメニューにあったので期待しないで頼んでみたら、これが意外とおいしかった。ピザの釜も本格的だし、また戻ってみたい感じ。
 土曜日の朝、リーエンツの町を少し見て回ってからTre Cime di Lavaredoトレ・チーメ・ディ・ラヴァレードへ向かうことにした。ここはイタリア側のドロミティのあまりにも有名な観光スポット。3本の巨岩が屹立していて、夏場はロック・クライミングやハイキングを楽しむ人でにぎわうらしい。冬場に行っても面白いのか謎だったけど、取り敢えず行ってみることにした。
 駐車場に車をおき、5,6人が乗れる客車を付けたスノーモービルで標高2000m程のトレ・チーメのすぐ麓まで上っていく。スキーを履いて上っていく人も多かったし、普通に歩いて行く人も沢山見た。ただ重要なのは帰りのソリを持参すること。ソリを乗せたスノー・モービルは簡単にトレ・チーメの山小屋〔冬は閉まっているみたい〕の前まで連れて行ってくれた。
slitta
slitta2
(道中)
trecime.slitte
(到着!)
 ここで気持ちのいい山歩きをした後、いよいよソリで平地まで戻ることになる。ソリの操作は決して難しくないけど、かなりスピードが出るし崖から落ちたら命はないので、子供だけでは乗せたくない感じ。実際親子一緒に滑り降りている人が結構いた。ソリが終わってからも駐車場まで歩きで30分くらいかかる。
tre cime1
tre cime2
 この後ブラブラしていたら凍結した路面での運転を学んだり、レースを楽しむ学校〔Volvoがスポンサーになっているみたい〕と犬ぞり訓練学校が一緒になった場所で休憩がてら食事をした。スペックとかポレンタとかこの辺の定番料理だった。
cortina.piatto
(茶色いのがポレンタ)
cortina.piatto2
 ところで、この辺では大体どこでもチロル風の大きなストーブを使っているんだけど、これが非常に快適そうですごく気に入っている。毎年ゴリツィアにもチロル・ストーブの商人がやってきて、設置まで完全にやって帰って行くらしい。値段は日本円にして100万円はくだらないっていう話だけど、使っている人はみんな満足そうだった。食事の後は学校見学というか散歩して腹ごなしをした。
inuzori
(犬ぞり学校)
kuruma
(凍結した路面専門の自動車運転学校)
 道中大変なこと続きでどっぷり疲れて帰宅したら、ベッドの上に1kgのチョコレートが置かれていた。色々手伝ってくれたから、と大家さんが置いていったらしい。少し横になって休憩した後、夜はソムリエさんと食事に出かけた。この日はゴリツィアの隣町、グラディスカ・ディゾンツォのアル・ポンテへ。マイダの次女カテューシャの夫の店だ。ここはニョッキとかチャルソンスとかフリウーリっぽいプリーモが美味しいみたい。ついでにアブルッツォのヴァレンティーニという生産者の99年のワインを少し試させてもらったけど、料理よりこっちの方が印象に残った。
al ponte
〔これは緑のニョッキとかいう料理。経営をしている兄弟のおばあさんのレシピを使ってるらしい。〕