先週帰国に先立ち、日本とイタリアの社会学の教授3名と同輩1名と共にイストゥリア半島の旅に出た。といっても私が一緒に回れたのは5日間だけで、6日目の日曜日にはポーラからコーペルに戻ってミラーノへ。
 取り敢えず大学で社会学の学会があったトリエステに全員集合。学会を終えた某先生がトリエステ大の某教授に車での同伴を頼み、5名でBasovizzaバゾヴィッツァのフォイバへ行ってきた。トリエステ市内にあるバゾヴィッツァの町はカルソの山の上に位置している。ドリーネと呼ばれるなカルソ地方独特のなだらかな丘陵地帯のなかにあり、周囲には大理石がゴロゴロと転がる雑木林が広がっている。
 現在「バゾヴィッツァのフォイバ」として知られる「穴」は元々20世紀初頭に石炭を探しのために掘られ、そのまま放っておかれていたらしい。その後ゴミ捨て場のように利用されて来た「穴」には、第2次大戦終結後の混乱が続いていた45年の初夏、旧ユーゴのパルチザン兵らによって民間人、兵士を問わず多くの人が殺害され、その死体が放り込まれた。
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〔現在「穴」の上には金属性の「蓋」がかぶせられている。この出来事を封印しようとするイタリア政府の意思表示、だとM教授は言った。〕
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〔「穴」の深い部分には第1次大戦の大砲などが埋まっていた。この碑にはその後の発掘の状況なども記されている。〕
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〔バゾヴィッツァに近いスロヴェニア系の村落Jezeroからの景色〕
 今や全イタリア的あるいは国際的にもよく知られた「バゾヴィッツァのフォイバ」の近くにはファシズム政権下のイタリアで国防特別裁判にかけられ銃殺されたスロヴェニア人反ファシスト4人のモニュメントも残っているが、こちらはイタリアでは全然その存在を知られていない。一方のスロヴェニアでバゾヴィッツァBasovicaというとアンチ・ファシズム、アンチ・イタリアを象徴するこちらのモニュメントが有名だというから面白い。私たちはトリエステの歴史家に両方のモニュメントを見せられたという「絶滅研究家」T氏の案内でバソヴィツァの2つの側面を見ることが出来たのだった。
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〔4人のスロヴェニア人の名前〕
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〔銃殺時の立ち位置か?〕
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〔バゾヴッツァの町にあった碑。44から45年にかけてナチファシズムと戦って死んだスロヴェニア人の名前が記されている。〕
 この後オピチナの町でマリア・テレジアの時代に現在トリエステ大学がある辺りからのばされた坂道の記念碑について住民男性に説明してもらった。碑には「商業上の便を計るために」とある。当時オピチナをオーストリア帝国唯一の港トリエステの町とつなぐ道は10度以上の傾斜があり、非常に危険だったという。これを5,6度程度に押さえる道路の設計をコンコルソ形式で募集し、つづら折り道路を実現するまで2年しかかからなかったというから驚きだ。
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 その後トリエステ大の先生の車を降り、トラムに乗って町へ帰った。トリエステは夜の方がよっぽどキレイだと私は思う。その中でもオピチナートリエステ線の車窓から見える景色は絶品で、旅行でトリエステに出かける人には是非おすすめしたい。
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 この後オベルダン広場で降りて、ビッレリアで食事。メニュにない「トリエステ(中欧)盛り」、という感じの非常に重たい一皿をみんなで頼んでしまい、飛行機の移動で疲れている一部の先生が辛そうだった。要は豚肉とイモとキャベツ。